ここ最近はアダルトビデオを借りる事なく仙人のように過ごしていた。
仙人のように、といっても人里離れた山奥にこもり、時折険しい山の頂きに立ち、杖をかかげてエイヤッと人知を超えた力を発揮するような生活ではない。
日々平穏に過ごしていたという事である。
日々平穏といっても仕事などをしている身であるので、それなりのストレスや予期せぬ出来事が起こる事はしばしばあるので完全なる平穏というわけにはいかない。
わりと普通の生活をしていたのである。
しかし普通というものが存在するかどうかは現在、私には判断できない。ある人は「普通」とは言葉のみ存在するもので統一した思考としては存在する事が非常に困難なもの、と言ってる人もいる。
例えば「フェラチオするなんて普通だよ」と言っている人をよく見かけるが、果たしてそれが本当に普通かどうかは個人によって考えは様々であろうし、一概に普通と言うには多種多様な、実際、実現不可能な条件が必要となるであろう。
しかし、例に挙げたセリフの中に「普通」という単語が含まれているだけで、必然的に強制力が伴うのも事実である。普通という単語があるだけで「みんなやってるからお前もしろ」という命令的な指示にもなりうるのである。
「普通」という単語の中にある思わぬ落とし穴があることに注意したいものである。
それと、例のようなセリフを言っている人をよく見かけると書いたが、実際そんな事を言っている人を見たためしがないのも付け加えたい。
閑話休題
そんな日頃の鬱憤が溜まってか、昨晩アダルティックなビデオを借りたのである。アダルトビデオを借りるくらいはいたって健全な事ではある(余計な事を書いたので「普通」とは言えなくなった。敢えて「健全」という言葉を使う)。
しかし、少々のアルコールが入っていたとはいえ、借りたものを確認すると、どうやらゲイもののビデオだった。決してその価値観を否定するつもりはないのだが、自分にない世界観を押し付けられた時は、しばしば不快になる事がある。つまり私はゲイもののビデオを自分から率先して見たいとは思わないのだ。
しかし、なぜ借りたのかは理由があるに違いない。
先日、知人がマットプレイを専門とする風俗店に行った時のこと、最初にシャワーを浴びるそうなのだが、その時は和気あいあいと話をしたり、軽いタッチなどをしていたのだけど、いざプレイが始まると相手の女性になにかをお願いする度に「いやだ」と否定され続けたそうだ。キスをしようにも、胸を触ろうにも、そのうち話す事すらである。さらにそれに限らず、様々な注意事項や姿勢を変えるように伝える時もそっけない口調で言い出す始末。これではまるでSMクラブである。マットプレイ専門店であるにも関わらずだ。
そのあまりの極端な変貌ぶりに、彼女がわざとやっているんじゃないかと知人は思ったそうだ。そう思った途端、彼は冷たい口調で責められる事が快感になっていったそうである。
ここにマゾヒストが開眼したのである。
後でその女性が言うには男性の最初の反応でSかMかを見分ける事ができるというのである。彼はMであると判断した彼女はそこでSとして接する事に徹したという事だ。
このような事実をふまえ、ゲイもののビデオ、タイトルが「たまあそび」というのだが、これを昨晩借りた原因を考えると、私が無意識のうちに同姓愛に目覚め始めているという事ではないか。
いや、これに関しては全力を持って否定したい。
その証拠を挙げて自分の助かる道を模索したいのだが、「たまあそび」を借りた事を理解した時に若干精神的に疲弊したのか「フェラチオするなんて普通だよ」というセリフに私自身、否定的になっている事に気付いた。
普段は言う側の立場(実際言うことはないが)であるのだが、無意識のうちにこのセリフを言われる側の立場としての自分を想定してしまっていたのだ。
だから否定的な見解になるのである。そして否定的になるという事は同姓愛に対しても否定しているという事だ。
これを私が同姓愛の趣向を持つ男ではない事を証拠と変えさせていただきたい。

よかったー、俺、普通で。